PSI Vol.2, No 2 March 1978 Circumstances to foundation pp.34.
 日本PS学会が創立されるまで(2)
 昭和50年7月19日(土)第19回の例会が電通大B101教室で開催され、終了時5時半頃から6時半頃まで有志数名が三々五々教室前の広場に集まって話しあった。筆者の心組みとしては、すぐにでも発起人会を開いて学会の創立にもってゆきたいのであったが、この日の提案によれば、まず趣意書をつくるのが先決であるということになって、第20回までの宿題を残したまま解散した。
 第20回例会は翌8月23日(土)前回と同じ会場で開催された。この日参会の有志は9名で、趣意書の草案を検討するため特別に集合する日時として8月20日(土)午後2時より5時半までと約して解散した。その意味で8月20日の打ち合わせ会は本学会設立の可否を決定する有意義なものとなった。この日趣意書草案が改めて検討され、発起人会で多少修正されたものの、現在広報部が利用している「日本PS学会設立の意義」の骨子はほぼでき上った。またこの日、発起人の依頼状、学会役員の選挙、会員名簿の整理、寄付依頼、設立準備会等についても話合われた。また、事務分担として庶務(議事録整理、定款の検討等)、会計(会費、寄付金徴収、振込口座設置)、編集(論文募集、学会誌発行等)、調査(研究委員会、講演会の開催、他学会への広告)、計画(各種対策会議、研究所の設立)等を考え、これらの大部分が後で定款に織り込まれた。
 いよいよ9月20日(土)例会を電通大B101教室で開いたが、例会後この教室は夜間授業に使われるので急いでB202教室に会場を移し、会長と理事の選挙を行った。事実上、これが発起人会となったわけである。この日出席者数十名の大半が例会終了後の発起人会に引き続き参加し、午後7時頃解散した。
 選挙の結果、会長と理事がきまったので、第1回の理事会を9月27日午後2時より午後6時半まで、電通大で開いた。ここで会費等も大体きまったが、前記事務分担を割り当ててみると、理事だけでは不足をするし、当分の間、編集会議を別に開くだけの余力もないので、全役員で相談しようということになり、理事会を第5回以降役員会と呼称するようになった。
 学会の名称は前記趣意書にものべたように日本PS学会とした。はじめ、生命科学とか意識学とか、超心理とか、サイコトロニクスとか提案されたが、どれにしたところで将来行きづまる時がくるであろうと予想されたので、最も一般的な名称としてサイ科学(Psi Science) のアクロニムを採った。
 学会が発足して、役員の皆さんは血のにじむような困難を経験してきた。最初の難関は会場と事務所の問題であった。昭和51年度以降、無料の電通大教室が使えない事情にあった。仮事務所にしていた藤川さんも近く電通大から離れる予定であった。従って、会合は例会の日以外にも開かれた。
 50.10.18:第22回例会、第2回理事会
 50.11.1:第3回理事会(電通大)
 50.11.29:第23回例会、第4回理事会
 50.12.13:第24回例会、第5回役員会
 50.12.21:第6回役員会(倫理研究所)
 51.1.10:臨時役員会(東京ヒルトン)
 51.1.24:創立記念講演会、第7回役員会(新橋 蔵前会館)
 第2回理事会では主として学会誌の編集について話合い、第3回理事会で入会申込書書式、寄付依頼書(案)が検討された。第4回の理事会では、前日までの投票集計により、各分担幹事が決定したので理事でない幹事も今後会議に参加して頂くため、第5回以降役員会と呼称した。この日、振替口座を法人化までの暫定処置として内田理事の口座を流用することにした。坂元理事よりは、5種類の発送文書印刷物を寄贈された。
 第6回は創立記念講演会等緊急議題があったので、年末押つまってからとなり、この日はじめて電通大以外で役員会が開催された。また、1月10日の臨時役員会はたまたま来日中のイゼンベルグス博士から珍しいキルリアン写真や映画を見せて頂いた後、東京ヒルトンのロビーで開かれたものである。
 そして、1月24日の創立記念講演会は満員の盛況裡に行われ、いよいよ正式に社会的活動を開始したわけである。事務所は藤倉顧問の御好意により、極めて低料金で現在の場所を拝借し、事務職員は上富美子さんの献身的な御援助によるもので、十分な給料でない上に満足な支払いもできない有様である。この2点は早急に解決しなければならない事情にある。
 以上、創立までの経緯を駆足でのべてきた次第であるが、例会の議題等については、別の機会に譲る。(文責 関)
日本PS学会が創立されるまで(1)

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