PSI Vol.1, No1 May 1976 An article1. pp.32-34.
 論説
科学の定義に欠陥がある
坂元邁
Tsutomu Sakamoto

 現在の科学をプラス領域の科学とすれば、その他にマイナスの領域ともいうべき科学がある。私がこの説を発表してから、
「そんなものはない。ありえない」或は、「科学の定義に反する」という反論があります。この反論に答えると同時に、実はこのことを理解して人間が意識を変えるか変えないかは、2、30年後、人類の破滅か、ユートピアかという程の差になって現れてくるので、良く考えていただきたい。
 科学の定義について辞典から引用してみよう。科学とは認識の一形態である。科学的な認識と他の認識の緒形態との差は、認識の対象(何を認識するのか)が違うことにあるのではなく、認識の仕方(どう認識するか)の違いによるのである。そのため、あるものについての科学的な認識の成果として得られた知識は、同じものについて他の認識活動によって得られた結果と違った性質をもっている。
 以上は科学の定義の一部である。
 私の意見を述べると、科学的認識の要素として二つあると思う(1)はその見方、(2)は手段である。手段とは科学独特の測定、計量、実証などであり、これが必要な条件であることは問題がない。問題なのは認識の方向である。
 真理には必ず二面性がある。上下、左右、表裏、男女、電気のプラスマイナスのように、物の見方にも二面があって、疑う方向と信ずる方向である。この言葉はあいまいでよく誤解を招くので次のように言うことにする。
(疑問をもって原因を追及するープラスの発想)
(疑問をもたないで、そのまま受け入れるーマイナスの発想)
(1)プラスの発想は科学的認識を生む。○(正しい)
(2)マイナスの発想は非科学的認識を生む。△(正しいが不正解)
(3)マイナスの発想は非科学的認識である。×(まちがいである)正確には次のように言うべきだろう。
(4)マイナスの発想は非科学的認識を生むことがある。(これが正しい)
 非科学的認識(正方形)はマイナスの発想(直角四辺形)であるが、マイナスの発想(直角四辺形)は必ずしも非科学的認識(正方形)ではない。私はこう訂正すべきだと思う。
 発想自体に罪はないのである。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というが、過去の歴史上のいきさつでは、宗教文明に反撥してルネッサンスが起り、近代科学が生まれ、やがて唯物観から「宗教はアヘン」とまで言われ、この発想自体を憎んで来た。しかし感情的にこの発想を非科学的ときめたわけではない。それだけの理由があったのである。
 科学者とは、疑ってみたり、信じてみたり研究の過程で試行錯誤をくり返すわけだが、一番最初に事実に直面しとき「疑問を持つか。持たずにそのまま受け入れるか」は全く意味が違うのである。それが辞書から引用した太字の部分である。
 ここに述べてあることは事実の描写であるから間違いなく正しい。しかしこの受け取り方を間違えたのである。
 同じものについてマイナスの活動によって得られた結果は違った性質を持つから別物だ。たとえ宗教であろうとなかろうと、少なくとも科学とは別物だと思いこんでしまった。
 まさか、性質の違った別物の科学があるとは夢にも考えなかったのである。
 発想自体をプラス・マイナスで科学的・非科学的と言うのなら、磁石をプラスから見れば磁石であるが、マイナスから見れば非磁石と言わなければならない。たまたまマイナスの発想の世界に宗教があったからいけなかった。地球上に始めから宗教がなかったと仮定して考えれば、発想には二面性があって一方の発想にしか科学がないと考える方がむしろ不自然である。
宇宙観科学観  相対性理論が出てから我々の宇宙観はニュートン力学の世界を包括して拡がった。この三次元空間は無限の拡がりを持ち、時間も又永遠の過去から未来に向って進むから、これ以上拡がりようのない宇宙観だったはずのが拡がったというのはどういうことか、つまり拡がり方の性質が違うということなのである。
 今私が言おうとしていることは、科学という学問の領域において、今迄の科学の定義はニュートン力学に相当する領域であり、この他に相対性理論に相当する領域があるということである。
 既知と未知の部分を合せれば、宇宙の全ての真理を包含していて、たとえ超常現象であっても例外なくカバーしているのである。だからこれ以上科学の領域は拡がりようがないと思いがちである。新領域は拡がり方の性質が違うわけである。
 今迄我々が陥っていた、あやまった認識の落とし穴であった「別物」が、実は今日の破局社会を救う「別物の科学」として誕生するのである。だから別物の科学の性質を知る必要がある。
 宗教と同じ方向の発想にも科学があるならそれに学べばよい(汝の敵を愛せよ)そこで例えば「愛」という1つの素子を考えてみよう。勿論愛は科学では未知の領域である。いずれ科学で解くときがあるだろう。しかし今は科学では扱えない。だから愛は宗教や倫理で今は教える。愛は今必要なのであり、人殺しや戦争をやめ人類は愛し合って食料危機や小氷河期に対処しなければならない。だから性質の第一は「今すぐ役に立っている」ことである。
 次に、もし科学で愛が解ったとしよう。愛とは生体のどういう現象か、感動のメカニズムや伝導(電気や熱のように)が判定でき、人々に愛の心を植えつける方法が実証される。その結果、全人類の心に愛の高度成長と大量生産が行われ、人殺しや戦争など夢にも考えないようなユートピアが実現するだろう。科学はそれほど力強く決定力を持つ。
 それに較べ、倫理の愛は、例えばすばらしい人間愛の話をすると、80%が感動し、60%が涙を流し、50%が「私も愛に生きよう」とちかう。しかし中には「私には関係のないことだ。それより生存競争に勝ち抜くため、人を押し分けてでも自分の地位と財を確保する方が得だ」という人もいる。だから今もって紛争がたえない。つまりその効果は確率的である。
新領域  以上で解るように、もし新領域の科学があるとすれば、(1)今すぐに役立つ。(2)確率論的である。(3)測定、実証できる。というものではないか。この(1)の性質が急速に人類社会を立ち直らせる力となるのである。
 水俣病が証明された時、その証明法を意外に感じた。大衆が蓋然性という言葉を知ったのもこの時である。「真実として認められる確実さの度合い。多分そうなるだろうという可能性の程度」という蓋然性による証明はたしかに今迄の証明法とは異質な感じを受ける。
 これが(2)確率論であると同時に決定論的証明のできない(1)今、すぐに役に立ったのも事実である。明らかに新領域の科学である。そういえば「患者と窒素工場との間に因果関係があるに違いない」と信じた所から疫学調査が始まったのである。
 1つの答えを出すのに決定論と確率論の証明法があるのは、プラスとマイナスの発想からの解法であることを物語っている。
 以上で解るように蓋然性で証明する科学が新領域の科学であるが、今迄の科学の定義を金科玉条とすると、それからはみ出た所に、既に科学が始まっているということである。
 つまり、相対性理論の時とは違って、科学の領域という問題ではアインシュタインが現れない内に、新領域科学が始まっているという珍現象である。あくまで定義を絶対視すれば水俣病を証明した疫学も非科学、始めて量的拡大に歯止めを呼びかけた生態学も非科学と呼ばなければならない。
 これら新領域の科学は[1]直接物質を対象としない(物離れ)行動や生態とは心の軌跡。[2]生命が関与すること。[3]道徳性を持つことが特色である。更にこれらの科学の特性である「今すぐに役立つ」という意味を考えてみよう。
 科学の特徴は既知の領域では決定力を発揮するが、未知の領域では手も足も出ないのである。例えば既知をとびこえていきなり未知のA点の真理は利用することができない。どうしてもA点が必要でも、既知の範囲着実に拡めていってA点に到達するまでは利用できない。似たような図で耕地がある。(a)が先にA点に行ってそこから耕地を拡げ、B点から(b)が拡げていってやがて既墾地とつなぐということは、科学ではできないのである。これが科学の決定的欠陥でもある。
耕地  世界の現状にAの真理を利用できれば破局社会が救われると解っていても利用できない。それを利用できるのが、新領域科学の最大の救いである。
 心が物理現象を起すという事実は昨年電通大で確認された。しかしそのエネルギーが何であり、どういう時発現し、実際に物理現象となるまでの因果関係はまだ解っていない。
 私は今日の世界の崩壊現象に対し「今すぐ間に合う」科学を実行しなければ手遅れになるという危機感を持っている。最近の疫学は広義であって事件も扱うので、
 (提言1)武蔵村山水道課の針金による水道管探査の2年間の実績を、日本疫学会は疫学調査して頂きたい。
 そうすれば正式に事実が証明され、マスコミでも実施講座が始まり、日本中に普及され、金属探知器産業が縮小・消滅して逆産業革命が始まり、脱工業化社会の第一歩が始まるのである。こうして因果関係を抜きにして超能力が利用できるのである。
現在成長は限界が来たと言われ、地方で成長がなければ福祉の向上はできないと言われしかも現在が転機の時であることも解っていて、その未来への方法の「確かさ」を模索中という。その解答がまさにこれである。我々は量的にはマイナス成長をやりながら福祉を増進させる方法を今考え実行しなければならない時である。そのために、
 (提言2)新領域に属する学会(行動科学、動物行動学、疫学、生態学、統合医学)が結集して、科学の領域拡大宣言を是非発表して頂きたい。(学術論文発表でも記者会見でも、或はシンポジウムでも形式は問わない。)
 そうすれば、副作用のない刺戟の医学が民間療法で保健がきかず、副作用のある方だけが正式の医学であるといったおかしな現象も消滅するだろう。それだけではない。
新領域が、学界の常識になれば、世界中の大学や研究所で「信ずれば起る」超常現象が自由に起り、全科学者の意識転換が始まり、明治維新以上の早さで、新地球人類共同社会が実現し、破局状況は急速に消滅していくだろう。(昭和51年1・30受理)

The museum of kokoro science
PSIJ